5.観音寺説の根拠
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 前節で、石田三成が子供のころ寺で学んだとすると、その寺は法華寺三珠院だろうと書いた。

 史料をたどる限り、そういう結論にならざるを得ない。



 しかし、今日では絵本太閤記の影響が強く残っていて、一般には「ソノ寺」を観音寺としていることが多い。

 また、歴史家の中にも観音寺説をとる人も多い。絵本太閤記の作者も理由があって、三献の茶の舞台を観音寺としたのかもしれない。

 何冊かの本に当たってみたところ、次の2つの理由が見つかった。



【距離の問題】
 地図を見ると、長浜城から観音寺まで6kmほどだ。一方、長浜城から法華寺までは20kmある。

 秀吉が鷹狩りと称して領地の見回りをしていて、三成と出会ったとすると、法華寺では遠すぎるのではないか。

 また、姉川の合戦から小谷城の合戦にかけて、秀吉は横山城の城番だったので、その辺りに土地勘がある。



【石田家と観音寺の関係】
 観音寺は、横山という低い山をはさんで、三成が生まれたとされる石田村のすぐ近くに有る。

 石田家と観音寺は、それ以前から関係が深い。三成の父正継の代も観音寺の檀家だった。息子の三成を観音寺に学問に出していた可能性は高い。



 下に、秀吉、三成関係の位置を示す。