何のための宗教か   2016.4/10


・考え事にもどる

   
 
 お寺の関係で、「推進員養成講座」というのに通っている。テーマは「生まれた意義と生きる喜び」だ。

 毎回講義の後にフリートークがあるのだが、その中で驚いた事がある。「何のために生きるのか、今まで真剣に考えた事がない」と言う人がほとんどだった。ありゃま。中学か高校生くらいになると、みんなそういうことで悩むものだと思っていたが。


 私は、宗教がテーマにしていそうな事のうち二つについては一応の結論を持っている。

(1) 何のために生きるか → 子孫を残すため。

 犬も猫も、ミミズもカニも。動物だけではない。カボチャもキュウリもタンポポも椎茸も。みんな子孫を残そうと必死で生きている。何のために生きるのか、などと悩んでいるモンシロチョウなど見た事がない。(見ただけではモンシロチョウの悩みは分からんが。)

 無数の生物がいる中で、人間だけ特別とは考えにくい。ただただ子孫を残すのが生きる意味だ。


 それでは結婚しない人や、子供が出来ない人の人生は無意味なのか。と言うと、そんな事は別問題だ。「人間は・・・云々」と一般化して考えるのと、「誰々さんは・・・かんぬん」と特定の人のことを考えるのに何の関係もない。

(2) 何故、悩みは無くならないのか → 消極的自我のため。

 ダイエットや禁煙をしようとした人なら誰にでも分かるが、自分をコントロールしているのは「私」ではない。

 「私」とは「意識」のことだが、自分をコントロールしているのは「無意識」だ。

 脳の働きは、記憶や判断、体のコントロールなど無数にある。意識も脳の機能の一つに過ぎない。意識だけ特別あつかいする意味はないし、それに「たましい」とか「心」という別名をつける必要も無い。まして、その機能だけが体を離れて「霊魂」になる等は意味不明だ。

 脳の機能のごく一部に過ぎない「意識」が悩み(=いやな記憶など)をコントロールできないのは当たり前。