思い出のマーニー   2015.4/7


・考え事にもどる

   

マーニー:アンナの祖母。エズミの死後、アンナを育てたが、アンナが3歳の時に病気で死んだ。物語では少女の姿で現れ、アンナにはマーニーの正体が分からない。

エズミ:マーニーの娘、アンナの母。自分を捨てた(と思っている。)マーニーを許せない。アンナが小さいときに、交通事故で死んだ。

アンナ:アンナをおいて死んでしまった母や祖母が許せない。自分に閉じこもり、人間関係が出来にくい。


【見捨てられた子供達の話】
・マーニーの両親は、マーニーをおいて、ロンドンで生活している。
・マーニーは、第二次世界大戦で、エズミを一人アメリカに疎開させた。
・エズミとマーニーは、アンナをおいて死んでしまった。
・プレストン夫人は、お金のためにアンナを育てている(とアンナは思っている)。
・ワンタメニーは、多すぎる兄弟の末っ子で、いらない子だと思われている。


【ゆるしと成長の物語】
・アンナは、マーニーやエズミが自分を捨てたのが許せない
・アンナは、「マーニーやエズミが『望んで私のことを捨てたのではない』と分かっていながら、それでもマーニーやエズミを許せない自分」を許せない。
・マーニーもエズミも、自分を捨てた親を許せないまま死んだ。

・ アンナはエズミやマーニーを許したいと思っている。
「ゆるしてあげる」と大声で叫ぶことが、この物語の主題。
マーニー(実はおばあちゃん)にどんなに手ひどく見捨てられても、それでも大声で「ゆるしてあげる」と叫ぶ機会を持つことによって、「母や祖母を許せなかった自分」に決別する。


【マーニーがアンナのおばあさんであること】
・アンナは、マーニーが自分のおばあさんであることを、意識のどこかで知っている。もし全く知らなければ、そもそもマーニーが現れることはない。短期間でも一緒に暮らしたおばあさんの名前を知っているのは、不自然ではない。

・自分自身も親に見捨てられ、娘とも和解できずに死に別れたマーニーは、孫のアンナを幸せにしようと、最大の愛を注いだ。しかし、それも出来ずに死んでしまう。

・アンナは、祖母が自分を強く愛してくれたというかすかな記憶と、祖母が自分を「見捨てて」勝手に死んでしまった事に対する恨みの両方に縛られている。


【物語の構成】
・この物語は大人になったアンナの立場から、子供のころのアンナのことを思い出して語られている、と解釈すべきだ。

[その理由1] 文体は3人称だが、話の視点が常にアンナの視点。ただし、2カ所だけ3人称の視点になっている(つまりアンナが居ないのに物語が展開している)場面がある。これはまあ、作者の不注意ではないか。

[その理由2] 「思い出のマーニー」「When Manie was there」という題名から、この物語が「思い出」である事が分かる。誰の思い出かと言えば、「マーニーおばあちゃん」ではなく「少女の姿のマーニー」の思い出であることは明らか。


【少女の姿のマーニーの正体】
・ネットで見ると、幽霊だとか、タイムスリップだとか書いてあったりするが、しっくり来ない。話の雰囲気と合わない。

・物語中でアンナが自分で言っているように、アンナが想像の中で作り上げた少女である、と考えるべきだろう。つまり、白昼夢の中の出来事だ。
・しかし、(映画では分かりにくいが)原作では、現実とマーニーの出現がからみ合っていて、単なる想像上の存在とは言い切れない。

・そこで、【物語の構成】で書いたように、これが思い出の物語であるとすれば、理解できる。大人になってから、子供のころのことを思い出すと、現実や夢や白昼夢がごちゃ混ぜになって、区別できないことがよくある。
 また、大人になったアンナが、そんなことを承知の上でだれかに語っている、或いは思い出にふけっている、と考えてもよい。

・リトル・オーバートンの自然や人々との関わりの中で、母や祖母への恨みが徐々に晴れていったこと。自分に無心の愛を注いでくれるマーニーという空想上の少女をつくって、一人遊びしたこと。リンジー家の人々との楽しい交流や、その中で偶然にマーニーのノートが見つかったこと。などが入り交じって、あの夏の思い出として形作られている。


【マーニー】
・マーニーに注目した場合、これは随分悲しい話だ。マーニーは両親に見捨てられ、夫に死に別れ、娘のエズミに許されないままエズミは死んでしまう。残された孫のアンナを育てようとするが、果たせずに自分も病気で死んでしまう。

・少女の姿のマーニーは元気で明るい少女だが、読者は物語の終わり頃には、この少女が寂しく報われない一生を送ることになるのを知るわけだ。


【アンナ】
・母や祖母が好んで自分を捨てたのではないと分かっていながら、それでも母や祖母が許せない。そして、そんな自分が許せない。
・そのことによって成長することをやめて、自分を外側の人間と決めつけてしまっている。

・マーニーは、アンナが「ゆるしてあげる!」と叫ぶ対象として作り上げた幻影だ。だから、その事件の後、アンナは急速にマーニーのことを忘れていってしまう。

・マーニーを「許す」と宣言したときから、アンナは成長し、「外側」や「内側」にこだわることをやめる。


【ゆるしてあげる】
 Yes. Oh! Yes. Ofcourse I forgive you! And I love you, Marnie. I shall never forget you,ever!

【マーニーの行動】
 マーニーの行動は、アンナがおばあちゃんに聞いた話の内容に縛られている。例えば、マーニーは屋敷の周辺や湿地、風車小屋以外の場所には現れない。アンナの家や町に行くことはできない。どうやってそこへ行ったかということを聞いていない場合は、いきなりそこに現れたりする。あるいは急に居なくなる。

 一方で、アンナ自身が空想の世界に登場する必要上から、おばあちゃんの話を作り替えた部分もある。

 それらを比較することで、物語の意味と構造が分かってくるだろう。

  アンナがおばあちゃんに聞いた話 アンナが物語に入り込むために作り替えた部分 リンジー家の子供達にはどのように見えていたか 
砂丘や水辺 砂丘や水辺でいつも一人遊びをしていた アンナとマーニーが一緒に遊んだ  アンナは一人遊びをしたり、見えないだれかに話しかけたりしていた
キノコ採り 一人でキノコ採りに行った アンナとマーニーが一緒にキノコ採りに行った   これらの出来事がマーニーの日記に書いてあるのを読む。
パーティの場面 マーニーはジプシーの女の子にシーラベンダーを売らせる アンナはマーニーに言われて、花売りの少女になって、シーラベンダーを売る
流木の小屋 マーニーはエドワードと流木で小屋を造って遊んだ マーニーはアンナと流木で小屋を造って遊んだ
風車小屋 マーニーは風車小屋で一夜を過ごし、エドワードに助けられた  マーニーはアンナを見捨てて、エドワードと一緒に帰ってしまう
許してあげる 無し マーニーが許しを乞うのに対して、アンナは「もちろん、許してあげる。」と叫ぶ。  

 見たとおり、「許してあげる」の場面だけが、アンナの完全な創作だ。

 マーニーが風車小屋でアンナを見捨てて帰ってしまうのもアンナの創作だ。確かに、風車小屋の事件は強烈ではあるが、極端に言えば、マーニーがアンナを見捨てるのは他の場面でもよかったとも考えられる。

 それは、アンナが「許してあげる」と叫ぶための舞台に過ぎない。

 このような解釈からすれば、アニメの中でマーニーが、「そんなつもりはなかったの。だってあの時、あなたはあそこに居なかったんですもの。」と答えるのは、本質に関わる残念な改変だ。大失敗と言っても良い。


【再び物語の構成について】
 先に、マーニーとアンナとの出来事は、「おばあちゃんから聞いた話からアンナが空想した」と書いたが、よく考えてみるとそれで良いのだろうか。それにしては、日記との一致が有りすぎる。

 大人になったアンナが、自分の子供のころのことを思い出しているのだとすると、もう一つの解釈も出来る。

 マーニーと遊んだり裏切りを許したりという白昼夢は、リトル・オーバートンに居たときだけではなく、そこを去ってから、つまり日記を読んでからも続いていた(付け加えられていった)のではないだろうか。


 と言うのも、これまでの解釈ではマーニーは全く救われない。

 しかし、この物語全体が、アンナがマーニーの日記を読んだり、マーニーの一生を詳しく知ってから、アンナの成長と共に心の中で育ったものだとすれば、また違ってくる。


【ソラリスとの相似】
 唐突だが、スタニスワフ・レムの「ソラリス」というSFがある。

 主人公クリスが、ソラリスの海によって作り出された亡き妻ハリーの幻影に悩まされる、という話だ。

 ソラリスの海はそれ自体知性を持っていて、ヒトの心の中に有るものを実体化させる。ソラリスによって実体化されたハリーは、自分は本物のハリーであるという意識を持っている。

 ハリーはクリスの記憶から再生されたものなので、クリスの知らないことはハリーも知らない。しかし、現れたハリーは実体なので、姿や行動はクリスの記憶からつくられてはいるが、ビデオを再生するように行動するわけではない。

 ソラリスでは、クリスは自分の意識から生まれたハリーを通じて、自分の内面に迫っていく。(迫らざるをえなくなって苦しむ。)

 ハリーとマーニーの共通点を感じないだろうか。


 そう言えば、アニメの「思い出のマーニー」のエンドロールの直前の場面は、タルコフスキーのソラリスのエンディングとそっくりだ。

 立っている二人を上から撮って、そのままズーッと退いていくと、周りがだんだん見えてきて、やがて視点は雲の上に出てしまう。

 原作者はどうだか知らないが、アニメの米林監督は原作を読んでソラリスを連想したので、こんなエンディングにしたのではないかと思う。


 さらに、そう言えば。宮崎駿の「天空の城ラピュタ」のエンディングは、「サイレントランニング」のエンディングから借用したものだろう。

 そう言う意味で、米林監督はタルコフスキー監督と宮崎駿監督の両方にオマージュを捧げたとも言える。