北風と太陽    2016.2/4


・考え事にもどる

   
  
 私は、国民たる者は現政権に対して批判的でなくてはならない、と思っている。それは民主主義の国家においては、国が正しく運営されるための、国民の義務だ。

 義務と言えば、退職した事をどこから聞きつけるのか、「節税のための投資」の勧誘が頻繁にかかってくる。納税は国民の義務だ。節税するなどという不届きものには、税金で作られた道を走って欲しくない。脱税するやつは、税金で運営されている水道の水を飲むな。チャンと税金を納めよう。

 あらまあ、初手から脱線してしまった。それはさておき。


 と言うわけで、私は長らく続いている自民党政権に対して、極めて批判的な見方をしている。権力を持つ期間が長ければ長いほどロクでもないことが起こるのは、自然の摂理と言っても良い。

 だからといって、共産党や社会党(?)の支持者ではない。きちんと政権を批判できる野党ならどこでも良いのだが、現状では存在しない

 長々と何が言いたいかといえば、以下の話に関わって、「私は、右翼でも左翼でもありません。」と宣言しておきたかっただけだ。いわゆる「ノンポリ(死語)」ですね。


 以下、本文。

 小学生から高校生の頃まで、儀式の時は大声で「君が代」を歌っていた。大学では歌う機会は無かった。就職して教員になって、しばらくは大声で歌っていた。

 特に「国歌は大声で歌うべし」と思っていたわけではない。当たり前だと思っていたからだ。

 ところがしばらくして「日の丸・君が代」問題に行き当たった。

 儀式の準備の職員会議では、君が代・日の丸をどうするか、と言う議論が必ずされる。多くのノンポリの教員は、「ああ、またやってるな」と、一歩退いて見ている。

 議論自体は、どっちもどっちで、いつも水掛け論だが、一つ大変腹立たしいことが有った。

 それは、文部省(現文科省)や教育委員会の強権的態度、あるいは二枚舌だ。

 議論はあくまで議論でなくてはならない。「言うことを聞かないのなら、処罰する」などと、げんこつを振り上げるなんて、ここは中国か北朝鮮か。まったくもって恥ずかしい限りだ。

 口先では、「各学校は、画一的でない個性的な教育に取り組め」と言いながら、儀式でちょっと歌を歌わなかっただけで処罰する、という二枚舌も気に入らない。ピアノ伴奏が正式でないというだけで処分された教員もいた。

 「クチパクをしないように、校長は教員の間を巡回し、本当に歌っているか確認せよ」という指示に至っては、こちらが恥ずかしくて、穴を掘って入りたくなる。こういう連中の下で禄を食んでいると思うだけでケッタクソが悪い。


 というようなわけで、何が正しいか、どうすべきか、ということよりも、君が代・日の丸の「押し付け」に、ほとほとウンザリして、私は君が代を歌わなくなった。

 私が特別へそ曲がりかと言えば、この話をすると、「ほんまに、ほうやなあ」と、同意する教師も少なくなかった。

 全部とは言わないが、教員が君が代を歌わないのは、半分くらいは文科省の責任だ。


【蛇足】平成11年に成立した「国旗および国歌に関する法律」以前は、正式には、日の丸・君が代は国旗でも国歌でも無かった。

 日の丸は、いくつかの法律に「日の丸が国旗である」ことを前提とした記述がある(例えば、船舶法)ので、実際上、以前から国旗であったと考えて良い。

 しかし、君が代に関しては、国旗国歌法以前に、国歌であるという根拠はない。(逆に戦争中には「海ゆかば」の方が人気があったらしく、君が代と軍国主義を関連づける主張にも無理がある。)

平成11年以前に、政権党や行政が君が代を強制していたのは、違法と言って良い。

 それより、おもわず国旗に頭を垂れ、大声で国歌を歌いたくなるような国作りをするのが、政権をまかされた者の責務だと思うのだが。